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2012年12月

2012.12.29

・茶iina・
         7

卒業単位は 足りた。
残りは 最後の一本の大論文。

もうあまり学校へは行かなくても。
笑。
やっと 『相棒』が 観れる。

そう喜んで喜んで仕事をしてから録画を見始めた。
気が付いたら寝てしまった。

目が覚めたら少し不思議な感覚が。

「ぉぃ これが君の望んでる生活か?」

「ぅ 多分ね。

しかし。。。」

韓ティンティンとハンティンティンが会話をする。

笑。
そう、それまでの十年近く、
ましにベッドで眠ったことが無かった。

学校 バイト バイト 学校 会社 会社 学校
黒板の文字は 私の羊君たち。

ベルは 目覚まし。

仕事先のトイレの冷たい便座でも一瞬「z」の世界へ
案内して
下さる。

唯一の仮病は 病院の真っ白なお布団三点セットに身を
任せ。。。

「人生は 眠い。」
っていつものこころ癖。

だけど いざとこのように 仕事以外 私 フリーだと
なると、
全身の全ての部品が痒い。
ような。
笑。

あの時は 三十歳だった。
思ったよ。

もし自分に子供が居て 
日々育児に奮闘する母ならば、
「ぁあ 眠いよ 毎日が。。」と叫んでもそれは本当に
妥当であって周囲に
「そうね 本当に偉いよ 頑張ってね」
とこころから そう思えてそう応援されるのだろうが、

「ハンティンティン 君は 違う。

君は あくまでも自己満足の世界に生きる奴だ。」
だから、
もっと働けっと。

停まっちゃ駄目。
だと。

父の急死から 多額な借金や理不尽な沢山がいっぺん
やってきた。
家業を潰せば 母も私も楽になれたはずだった。

しかし、
母の哲学に勝てなかった私は
両親の子という道しか歩めなかったあの十年間だった。

ひとりで 歩き出した。
二月の最後の日に。

「あっ ティンティンちゃん!

この頃どうしてたの?
顔見ないから。。。。。」
湯村温泉郷に 私の第二実家 二人目の母ちゃんの頬笑


はっきりと 目の前に。

笑。

つづく

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2012.12.27

 ・茶iina・
         6

会社を創ることを誰とも相談しなかった。

笑。
茶iinaの時も。

「ひとは 一人じゃ生きていけない。」
でも ひとりで 決めて行かないと。

創業しなければ ビザを得れない。
ビザが無いと 進学できない。

進学できないと 先生になれない。
五歳から小学校の教員を目指していた私は
自分のキャンパスを広めてしまった。
笑。
知らないうちに。

東京の生活はシンプルで冷めたものだった。
しかし今思えば、
遊び下手な私に賑やかというバランス感覚を与えて
くれたの
かもしれない。

笑。


つづく

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2012.12.25

 ・茶iina・
         5

笑。
東京人は 甲州人よりは 外人慣れしてるだろと
勝手に思い込んでいた。

甲州弁のまま 江戸へ進学した。

キャンパスの二日目、
時間を気にする私は隣の先輩に時計の針の場所を
確認する。
「すみませんが 今いくじ(何時)ですか?」

「?!

育児? 終わりましたわ!」
若干クールで若干白いほうのお目目の多めな、
あの若干「凛」とした表情。

「あっ。。。

ごめんなさ。。。」
(T.)

。。。。。。。。。

「山梨の葡萄と桃は 美味しいですね。」

「ほぉさよぅ 美味しいさよぅおー」
(T.)

「笑。
さよ 左様でございますか?

ぉほほ。。」

。。。。。。。。。

それまでには 日本語能力テストの際、
翻訳文の語尾に必ず「さよ」・「ずら」をわざわざ丁寧に
付けてしまいそれで一級を合格出来なかった時の苦い想い出を
。。。。。

これが私のヒアリング・耳から覚えた赤ちゃん日本語の
せいだと
今度は 甲斐の面子に傷付けたような感情が妙に湧いて来て、
今思えば非常に不思議な感覚だわと。
笑。

学校から歩いて七分のとこで下宿することにした。
標準語にある程度馴染んでからじゃないと盆地へは帰れる顔が
無いぞと。

笑。
まぁ、冗談に通じないことにしろ、
青臭かったことにしろう。

頭が堅過ぎるにしろう。
つまらん思考回路だった。

しかし、
あれも あれで 私の青春だった。
笑。

六本木交差点の一角に暮らし、
あの頃の唯一の楽しみは、
TSUTAIYAと一緒になってるスターバックスで朝四時まで珈
にお世話になりながら論文やら翻訳の仕事やらに
105パーセント集中する作業だった。

あれだけは、
生きてる 感じがした。

笑。

つづく

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2012.12.22

・換位思考・

笑。
割と 好きだった この言葉。

「相手の立場に立って 相手の思考回路で物事を考えてみる」。

でも 面白いことに
相手を尊重しながら 自分のこころを可愛がるって時には本当に
上海雑技団並みの高難度。

笑。
そんなつまらんことで皺を寄せる暇があったら、
さっさと本人に向って歌っちゃおう。

「砂糖をまぶして食べるぅ食べるぅー」

てぃんてぃん

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 ・茶iina・
        3

三つ目の学校に決めた。
ようは ニッポンを離れるか、
それとも 日本で続けて進学するのか。

進学してから 一日も早く教壇に立って、
自分の本当にやりたいことに投身するか。

私学。
都会。
婚約解除。

会社。
通学。
徹夜。
借金返済。

差別。
怒り。
酷い腰痛。

日々、自分との戦い。
笑。
今思えば、あの頃初めて 自分が負けず嫌いかも
と思っただよ。

楽な方法は 幾らでもあった。
なのに。

笑。
今でも思うよ、
武勇伝でも自負でも なんでもないよ。
もしあるとしたら、
きっと その自分の中から中々追い出し切れない
変な自尊心。
少し どっちでもいいプライドみたいなものに、
勝てない自分の弱さ。

暗かったぁ。
顔から なにからなにまで。

元々小さくて よく探さないと見つからないほどの
えくぼなんか 尚更 姿が現れなくなった。

学校・職場以外、
ひとと会うことはしなかった。
っていうよりは、
あの当時自分の気持を誰かにほんの少しでも話そう
という想いは無かったのかも。

どうせ 理解されないだろう。
とそう堅く勝手に信じていた。

父の死から母と私の人生はどん底。
それはそうなんだから呑み込むしかないと。
じっと耐えて自分の突破口を見つけるまではじっと
して生きて行かなくては。

米国の南国の離島に こういう御話があるの。
「全て 自分自身に問題が。」

神を信じない私にも 一瞬躊躇するこの一語。

過労で日々増え続ける白髪の数。
真冬の早朝四時に気が付いたら談合坂で仮眠をとる
つもりでぐっすり眠ってしまった骨まで冷え切った
寒さ。

私は 泣きたかった。

帰れるとこがあれば 帰りたかった。

「韓 ティンティンゃ ハン ティンティン。

君は なにをやってるのだ?
なにをやってるのだ。」
自分に狂ったように狂ったように何度も何度も問いた。

つづき

てぃんてぃん

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2012.12.21

         ・茶iina・
               2

「君は もう一度生まれ変わったら、

なに人になりたい?」

あの国立の最後の一環の面接の場に
三名様の面接官の真ん中に座っていた
あの髪の真っ白な教官教授のお口から発した日本語たち。

「両親の子、

チャイニーズとして。」
あの鼻の穴が天に向けていた白髪先生の
あの上から見下ろすような御態度に非常に全身に蕁麻疹が
広がったような感覚でつい。。。

「ふんっ。 中国人?!信じられない、君!」
品格良く鼻白んだ仙人教官。
「アメリカじゃなくて 日本じゃなくて 中国?!。。。

sfdfhjk/m,atf yguhjasn ieqqAojf ealv‘kwr31c
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」

笑。
本音を云うと
生まれてから至る現在、
自分自身はなに人かそれでどうしたのかだから何なのかと
どちらでも佳い御話だと思ってきた。

偶々あの赤い旗の国に生まれたことに
偶々国籍がチャイニーズとなっていた両親の家に迷い込んだ
私のパスポートのデザインに何の問題があるのかって御話だ。
と妙なとこから妙な怒りみたいな感情が湧いて来て頬に紅が。

「この国へ求学しに参りました。

先生、貴方はフェアな教育者では無さそうだ。
極めて遺憾です。

では、失礼します。」
席から立ち上がってあの部屋を去った。
迷いも無く。

国立でアジアでは一流大学の院かもしれない。
国際協力という立派な名を乗る新分野の名校。
しかし、
これじゃ救援や支援のこころを全く感じ取れなかったのだ。

希望と免疫をしっかりと胸ポケットに入れて、
第二校への探険。

今度こっそ 親切が巡って来るじゃろぅ

小さな期待をしながら長々論文に励んだ二十八歳だった私。

今度の三名の真ん中の一名は有名な中国通・太極拳通教授。
それを知って受験を企んだ私の「下心」に返って来る「蜂」。
のような三十分面接。

「君は 自分の祖国をどう思うのか?」
よーしっ! また来たぞぅーとぞっとする私。

「笑。

元気だが、健康的ではない。」
と真剣に答えた。

「あんな酷い国 二つ目が無い!

sdfghjkrtuyioj:kp]gjkl;k:l]hjlgfgjjgjkk
......................................................./

。。。。。。。。。。。。。。。。。。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。/」

「残念ながら 先生のお喋る通りだと認識しております。

しかし、
どこの国にも蔭が有ると思っています。」
こころの中で絶望的な悲鳴がのど辺りに上がって来て胸が
蜂針に刺されたような。

この国は 駄目だ。
もう限界だ。。。。。
と初めて思った。

思い始めたのである。

「中国のほうれん草問題は。。。。。」
帰りのハンドルにラジオの中からパーソナリティの美しい声が
。。。。。

つづき

てぃんてぃん

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2012.12.20

                           ・茶iina・

「ティンティンが カフェを始めたらしい。」

「嘘っ?! 無理ずらっ。」

笑。
本当だったらしんだ。

しかし、
四年間半で「長期休憩」に。
笑。

約七年前に意地で借金で会社を創った。
理由はシンプルな物だった。
外人は日本に合法的に滞在するのに、
ビザというお洒落なシールが必要だった。

偶々入った院が、
大学自体外国人にビザ申請の出来るシステムが
無かったことから、
「ご自分でなんとかしなければ」との条件だった。

それでも、
あの当時の私のこころの中では他の選択肢はなかった。
日中関係のなんちゃらなんちゃらの真最中での大学院受験だった。

国立一カ所と日本じゃ一番大きくて一番就職に有利だと
言われるなんとか大学のなんとかキャンパスの国際なんとかと
いう学部の合格も同時に頂きましたが、
あの最後の面接という段階でそれぞれの三名ずつの教官の前で

非常に興味深い想い出が。。。

「君は なんの研究をしたいのか?」

「日中関係です、先生。」

つづく

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2012.12.04

・Hi, 粉筆老師!・

笑。
五歳の誕生日。

「大きくなったら 何になりたい?」
母が林檎の皮を剥きながら私に話を振って来る。

乾麺で作ってくれた野菜多めの「長寿麺」を啜って、
どんぶりのど真ん中に位置する貴重な玉子を器用に
避けながら丁寧に頂いて 
呟いた。
「先生。

学校の先生になるの。」

「笑。
そか。

いいね。
なら 頑張れ。」
いつもこころからあの母ちゃんという人物のことを
感謝している。

だって、
本当のとこじゃ、
警官かジャーナリストか外交官か、
それか辺鄙な農村で小学校の先生とかになってほしかった
ようなのに。
子供の進路に関しては一度も否定したことはなかった。

親になったことの無い私には
親の期待というものに
気付かないまま自分の道をどんどん勝手に進めて来た
ような。

親不孝。

。。。。。。。。。。。。。。。。

長い長い小学校生活、
好きな先生とは出会えなかった。

賄賂天国のあの国のキャンパスに
新年や新学期となると、
先生達のお目目は兔のように真っ赤かになる。
笑。

「反抗児」の両親は「師は 弟子の範」だと、
全ての「恩師」達に
金も品も一元も差し上げることはなかった。

笑。
それで言うまでもなく、
私の席に「太陽」のひかりが一度も撒いて来たことも無く
あの少し固めの紙を頂いて次のステップへ。

その時に私は自分に言いました。
「もし君は本当に教壇に立ちたいのであれば、

フェアで生徒の言い分を最後まで聴いて上げて信じて上げ
られるような先生になろうね。

たとえ傷つくことがあっても騙されることがあっても。」
と。

中学校に上がると、
ますますひとりで居るのが上手になった。

昼休みはいつも放送室で童話のキャンパス・アナウンスを
担当して、
器用にお弁当をつまみながら一人で三役したりして、
一人でこころの中で国語をEnjoyしてそれだけが楽しくて。

下校をするとプールに潜ってラッコみたいに潜ったり、
濡らしてもいい本を水に浮きながら読んで欠伸をしてまた
読んでまたくしゃみをしたりしてまた。。。
時にはそれで風邪を貰ったり。
して。
笑。

転校生活に教わったのは、
今まで通りに頬笑んで人並みに親切に生きるけれど、
周囲には期待しない。
笑。
特にクラスのNO.ONE—「老師」という生き物達に。

特に胃袋と耳の調子を悪くして下さったのは、
二つ目の転校先の担任先生の
あの六十うん人のクラスメートの前で言われた一言だった。
「聴いたとこによると、
君のお父様がうちの学校の本校のビルを建てたそうだけど、

うちも マンションの一室を買ったばかりですが、
内装するのに。。。。。」。

笑。
「プレゼント文化」はもうチャイニーズのこころを二千年も
ロックしてきたので、
我が恩師も
「平凡」な教育者の一人に過ぎないだけの話だ。

師を蝋燭に喩える中華文化。
私のこころを照らす中国製ロウソクは可哀想なくらい少なかった。

笑。
ちなみに、
当然なことに 気の「弱い」私は両親にその「情報」を渡さなかっただ。
至る現在。

けれど、
それよりはいつか細かくあの大陸で出会った唯一恩人とも言える
恩師の御話も。
笑。
うん、そう、居たのよ。
実に好運なことに。

身長は あまりなかった。
お顔は 普通だった。

厳しい 頬笑みを持っていたおじちゃん先生だった。
国語の。
笑。
私の大好きな国語の。

おまけに、
放送サークルの担当責任者を勤めるあの少し髪の分布の偏って
いた先生。
ブルース・リーと同じ名字の先生。
笑。

唯一目を閉じても名前をフルネイムで書ける先生だ。
笑。

授業の少し前、
大好きな黒板消し作業に鼻歌で取り込む私に
「君 韓 ティンティンというのか?」

「はい。

今のところでは。」

「笑。
成る程。

君の校内放送をいつも楽しみに聴いてよく笑ってるわ。
ゆめは?

君の夢は なに? アナウンサー?
それともパーソナリティー?」

「いいえ、先生。

私は 教員になります。
一生チョークを手に握る地味な先生になります。」

「びっくり顔。
?! あっ そう?!

君が?

。。。。。。。。。。。。。。。。

笑。
なら 頑張れ。」

笑。
はい、先生。

きっと あの時もそう答えたのかな。
笑。
きっとそうだったのだ。


あれから二年後、
小学校の教員になる為の五年制師範大学校に
僅か二ポイントの差で落ちた。

あの社会システムのことなので、
2=2000元の「補充金」があれば宜しいことに。

悔しかった。

両親は いつも通りの様子だった。
笑。
いつも通りの。

「どうしても入りたいのであれば、
Papaは小判を惜しいんだりしない。

しかし、
君は教壇に立っても一生あの2ポイントという重みを
背負うって生きて行かなくでは。

笑。
もうガキじゃないから。」

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

笑。
いずれにせよ、
私の履歴書にあのゆめの学校の余韻もない。

いずれにせよ、
あれからの私の歩みは
少し年の割には爺さんの心電図のような部分も。
笑。
いいのも、
悪いのも。

それから、
いいのも。

昨日、
初めて口にした言葉、
「将来目が閉じたら、

周囲にあのティンティンという先生は一流の先生だった
とは言われたくない。

その代りに物凄く言ってもらいたいのは、
彼女は 精一杯の先生だったのだという。」

本音だよ。
今日のも。

笑。
本音。

それから Hi,粉筆老師!
       (こんにちわ、チョーク先生!)


てぃんてぃん
平成二十四年十二月四日
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